オーサー最新インタ 、ゆづ&ネコ癒し映像

ユーロ選手権中に受けたオーサーのインタビューのようです。
かみ砕いた翻訳をしてくださっています。ありがとうございます。



アメリカの選手のワールドと四大陸の代表は全米選手権後に決まります。
ネイサンが四大陸出場については、公式の発表まではわからないですね。
全米ショートでネイサンが昨年を超える高得点(ルッツ抜きで)をマークしたようですが、クワドレスのジェイソンですら100点オーバーでしたので、まあそうなるでしょうね。全米爆盛り祭は相変わらずのようです。

ユーロでは、ダンスでまさかのパパシゼが2位! 
パパシゼの点数がでるのにかなりの時間がかかったようです。そして僅差で王者が入れ替わった。パパシゼにミスがあったそうですが、なんとなくシニカツとの世代交代をさせたい空気も感じます。さいたまワールドですでに、パパシゼとシニカツの点差がかなり接近してきていましたから。まあ、それでもノーミスならば、まだパパシゼが優位だと思いますが、彼らも隙を見せたらまくられるようになったんですね。政治力はどうみても「ロシア>フランス」だろうしな…。


全日本後、元気がなかった…というのは、このインタビューを振りかえると想像できます。


負けたときによくとびだす「悔しい」という言葉…それすら口にしていない。
なんとか前向きな言葉を引き出そうとするインタビュアーに、キッパリ「得たものは何もない」と。
笑っているけれど、泣いているように見えるのは私だけでしょうか?
結弦くんは、本当に辛いとき無理して笑うんだよ。過去を振り返ってもそうだった。

ファイナルと全日本、絶対獲りたいと思っていたタイトルを取れなかった。
「負けっぱなしはつらい」という、彼らしくない弱気な言葉がショックの大きさを表しています。
それでも、オーサーは今「トレーニングはうまくいってる」と。その言葉に救われる。
彼が前を向いているのなら、ファンは全力で応援するのみです。


では、気分を切り替えて、貴重な癒し映像を。
地域の壁で見れない番組だったので嬉しい。動画主様ありがとうございます。

猫と羽生くん 羽生結弦 yuzuru hanyu



なんとなく貼ってみたくなった…。

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2020/01/26 10:05 | クリケット・恩師COMMENT(3)TRACKBACK(0)  TOP

ゆづと山田真実コーチとの絆 その4 ~朝日新聞記事より

山田真実コーチのお話、その4です。朝日新聞の記事から。

こちらは、平昌五輪のショートが終わった時点での記事です。



少年・羽生結弦、難しい技ほど食いついた…元コーチ語る(20180217)

 16日に行われたフィギュアスケート男子ショートプログラム(SP)で、羽生結弦(23)=ANA=がトップに立った。昨年11月に痛めた右足首の影響を感じさせない圧巻の演技に、かつての指導者たちは驚きと喜びの声をあげた。17日のフリーで、2大会連続となる金メダルに挑む。

 「緊張してるんだな」。小学2年生まで仙台市でコーチを務めた山田真実さん(44)は、リンクに滑り出す羽生をテレビで見て感じた。「彼らしい自由な感じがない。一個でも失敗しちゃいけないみたいな感じ」

 それでも、次々とジャンプを決める。着氷の後、両方の拳を握りしめた。「思うようにいっているんだ」。山田さんの心配は、安心に変わった。

 指導を始めたころ、羽生はリンク外をドタバタと走り、練習を始めても10分ほどで飽きてどこかに行ってしまった。「やんちゃで、最初の1年くらいはレッスンにならなかった」

 ただ、ジャンプの吸収力は高かった。他の子が1年かかる1回転半ジャンプを1日で跳んだ。難しいことをやるときほど食いつきがいい。2回転ジャンプが未完成のとき、あえて2回転半に挑戦させた。

 そのころから頭や手足を思い切って振り、全身で何かを表現しようとしていた。観客を喜ばせる方法を知っているようだった。「どこからその自信が出てくるのかと思うほど『自分はできる』と思い込んでいた」という。

 SPを終えた羽生は、表情を緩め、両手をたたいてファンの声援に応えた。

 山田さんの後、仙台で羽生を中学まで指導した都築章一郎さん(80)はそんな様子にホッとした。「いい状態で演技できた。自分のイメージ通りに体をうまくコントロールしていた」

 羽生は当時からリンク外でよくイメージトレーニングをしていたという。「けがで氷に上がれないときにも取り組んでいたのだろう。だから、ブランクを乗り越えられた」とみる。

 17日のフリーで、2014年のソチ大会に続く連覇を狙う。「重圧のなか(ショートプログラムを)やりきった。人間的な大きさ、心の成長が最も大きい。ブランクによるスタミナ不足は集中力で補ってほしい」(後藤太輔、西村奈緒美、高浜行人)



こちらは有料記事になります。ベタ貼りします。
山田コーチだけでなく、都築コーチや長久保コーチなどについても書かれています。


「スタッフとじゃれ合っていた」 恩師が語る羽生結弦(20190319)

 平昌(ピョンチャン)五輪フィギュアスケート男子で66年ぶりに連覇を達成した羽生結弦(24)=ANA=が、20日に開幕する世界選手権(さいたま市)で再び頂点をめざす。偉業を達成してもなお、挑戦を続ける原点は何なのか。恩師たちの言葉から、羽生の少年時代を振り返る。

 昨年11月の夕方だった。アイスリンク仙台の入り口から、学校帰りの子どもたちが「こんにちは」と元気よく入ってきた。

 羽生が五輪で金メダルを獲得したときの新聞記事や、直筆のメッセージなどが飾られている。「どんな試合でも全力で滑る!!」(2014年)、「平昌オリンピックで金メダルを取る!」(17年)と書かれた短冊もあった。

 支配人の在家正樹(48)は小さいころの羽生を知る。「人なつっこくて、スタッフとよくじゃれ合っていた。いつも大きな声で『ありがとうございます』と、きちんとあいさつができる子だった」。ジャンプを失敗しても何度も跳び続ける姿が、印象に残っているという。

 その羽生が初めてリンクに立ったのは、4歳のころだった。姉のスケート教室に付き添う母に連れられてきた。リンクサイドで遊んでいると、山田真実(45)が声をかけた。「スケート、やってみない」

 羽生はスケート靴を履いた。床を走り出し、そのままリンクへ。数歩進んだところで、ひっくり返った。「大丈夫?」。山田が声をかけると、何事もなかったかのようにまたリンクで走り始めた。

 それが羽生のスケートデビューだった。


「こんな才能のある子は初めて」

 機敏な動きと高い運動能力。「他の子と違う」。山田は感じた。スケートを教えるようになると、ずば抜けた才能は明らかだった。跳び方を教えればすぐできてしまう。

 同年代の男子と同じように、練習は10分も続かない。滑り出してもすぐに、リンクサイドに出てボール遊びを始めてしまう。

 それでも、山田はこう振り返る。「1回転のアクセル(ジャンプ)をやってごらんと言うと、『僕もアクセルやっていいの』と言ってやる。そして跳べてしまう。こんな才能のある子は初めてだった」

 羽生が小学2年のころ、山田は北海道に引っ越した。後を受け継いだのが都築章一郎(81)だった。高校1年まで教えた。

 「天真らんまん」

 それが羽生に対する最初の印象だった。「ジャンプを競い合って2、3学年上のお兄さんに負けて悔しがって。でも、次は勝とうとして一生懸命練習していた」

 都築は基礎練習を繰り返した。「基礎ができていれば成長する。回転数が多くなっても跳べる」。羽生は根気よく続けた。「飽きっぽい性格には向かないと思ったけれど、結弦は自分に必要だと思うことは徹底してやっていた」

 特にアクセルジャンプに時間をかけた。羽生は足を大の字に開いて1回転半を跳ぶ「ディレイド・アクセル」が得意になった。それが今のトリプルアクセル(3回転半)の精度の高さにつながっているという。

 ジャンプだけではない。羽生は音楽にのって滑るのも好きだった。音楽を自分でイメージし、表現して踊った。「スケートを通じて芸術家になってほしい」。そう願った都築は、振り付けをしてもらうため、小学生の羽生をロシアに連れて行った。


まねて上手になりたい子

 長久保裕(72)も、小学生のころの羽生を教えた一人だ。

 羽生は、06年トリノ五輪女子金メダルの荒川静香(37)や世界選手権2大会連続男子銅メダルの本田武史(37)らと一緒に滑った。先輩の滑りやジャンプを吸収していった。

 「感覚が良くてすぐに理解して体で表す。自分で考えて直すことができた。スケートに対して勉強熱心だった。(五輪金メダリストのエフゲニア・)プルシェンコさんや荒川さんたちとは違う、ではなく、まねて上手になりたいと思う子だった」。練習前のリンクサイドでは、母が付いて、プルシェンコがやっていたビールマンスピンを練習していたという。

 長久保は言う。「男の子はダイヤモンド。僕らは一生懸命磨くんです。そうして続けていくとダイヤモンドのように光り出す」

 そんな羽生を、11年3月11日、東日本大震災が襲った。「あの天真らんまんだった羽生がそのときは落ち込んでいた。自分はスケートをできるのか。目標を持ち続けることが難しいと感じていたようだった」。都築は振り返る。

 練習拠点を失った羽生を、横浜市内のリンクに移っていた都築が一時的に受け入れた。そして週末は60回もアイスショーを回った。「ショーをやる中で周りから励まされて、新たに挑戦する気持ちがわいてきたと思う」

 12年3月、羽生は初出場の世界選手権で3位に入った。その夏、カナダ・トロントに拠点を移した。世界の頂点への挑戦が本格化した。


「世界の羽生になろう」

 都築は思い出す。羽生が小さいころのことだ。

 「世界の羽生になろう」「夢に挑戦しよう」

 よくそんな話をした。

 「今季は『初心に帰る』と言っていた。小さいころに話したことが心の中に残っていて、その重要性を感じてくれているのかもしれない」

 今季、羽生は4回転―3回転半に挑戦した。誰も跳ばなかった技だ。「彼は未知の世界にどんよくに挑戦する気持ちを今も持っている」

 数年前、羽生はアイスショーなどで長久保を見つけると、練習後に隣に寄ってきた。そして尋ねた。「ジャンプの状態はどうでしたか」「先生、明日(自分の練習が)午前7時からですからお願いします」。幼いころから自分を知る指導者に、頂点を極めても謙虚に学ぶ。

 最近は教えることにも興味があるようだ。平昌五輪で金メダルを獲得した直後、長久保がLINEでお祝いの言葉を送ると、こんなメッセージがきたという。

 「わざわざありがとうございます!いつかコーチングのこと、教えてください。先生のとこ行きます」=敬称略(浅野有美)



長久保コーチはジャンプの指導に定評があるコーチでした。今はコーチ業を引退されていますが。

都築は基礎練習を繰り返した。「基礎ができていれば成長する。回転数が多くなっても跳べる」・・・都築先生の指導が間違っていなかったことは、今結弦くんが証明しています。都築先生、ありがとうございました。


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2020/01/24 09:30 | クリケット・恩師COMMENT(2)TRACKBACK(0)  TOP

ゆづと山田真実コーチとの絆 その3 ~Number記事より

山田コーチと結弦くんの絆、「その3」はNumberの記事から。
おお、人気投票で1位に輝いた表紙ですね(笑)


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この号のNumberに「ユヅルが初めてリンクに立った日」という記事があります。
ライターは城島充さん。抜粋します。

後のオリンピック金メダリストが初めてリンクに立ち、氷の上を滑った光景を山田真実は鮮明に記憶している。正確に言うと、滑ったのではなく、ヘルメットを被った4歳の羽生結弦は子供用の小さな貸スケート靴を履いて氷の上を走った。

「ほとんどの子は怖がってしゃがみこんだり、フェンスをつかむのですが、結弦は違いました。いきなり走ったんです。それも、ぶっ飛んで行くって感じで」

北海道苫小牧市出身の山田は東京の大学を卒業後、仙台市内のリンクで指導者としてのキャリアを築き始めたばかりだった。
羽生の4歳上の姉を週に一度個人レッスンをしていたが、いつもリンクに遊びに来ていた弟はその日、母に勧められて初めてスケート靴を履いたのだった。

氷の上を走れたのは、ほんの数歩だったか。小さな体はあっという間にバランスを崩すと、突っ伏すように転んだ。
「痛くない?大丈夫?」
山田は慌てて駆け寄ったが、リンクの外で遊んでいる時にも運動神経の良さを感じさせた男の子はけろっとした表情ですぐに立ち上がると、また走り始めた。
そして同じように転倒して冷たい氷に全身を打ちつけるのだが、すぐに起き上ってまた走り出す。山田は声をかけるのをやめ、ただ驚いてその光景を見つめた。

「氷の上で転ぶ痛みを味わうと、次はどうしても怖がって力を加減してしまう。子供の技術を向上させる上で、もっとも大きな障害になるのはこの恐怖心なんです。でも、結弦にはそれがなかった」

その後の練習も指導の主体はあくまで姉であり、少年の集中力は10分も続かなかった。だが、その短い時間に垣間見せたいくつかの才能の萌芽は、フィギュアという競技に必要な要素とぴたりと重なっていく。

5歳になるころ、初の大会に出場するために『草競馬』という曲に合わせて振り付けをしたときだ。スケーティングの技術はまだ未熟だったが、小さな体で何かを表現したかったのだろう。おかっぱ頭の少年は曲が始まると、不安定な足さばきでリンクの上を滑り、頭を思いっきり振った。
「まるでX JAPANのYOSHIKIさんがドラムで叩いている時のように頭を振り続けるんです。まだ、手足を自由に使って表現する技術がないから、頭を振るしか表現方法がなかったんですね。最初からすっと自分の世界にはいってしまうので驚きました。『そんなに振っていると、頭が痛くなるわよ』って言ったのを覚えています」

自らが演出した世界に酔う才覚は、フィギュア選手にとって必要不可欠な要素である。「もっと思い切って体を動かしなさい」と言っても、恥ずかしがって小さくなる子どもが多いなか、羽生の感情表現はときに過剰に映るほどだった。
「自己陶酔できるというのでしょうか。けがをしたときには悲劇の主人公になりきるし、私に怒られた時も『あなたに怒られて、僕は今、ものすごくダメージを受けています』という態度をアピールしてくるんです。彼の表現が真実なのか演技なのか、見極めるのが大変でした。

山田を驚かせたもう一つの才能は、新しいジャンプを習得する際の適応力である。
フィギュアには6種類のジャンプがある。全ての跳び方で1回転できるようになってから次の段階へ進むのだが、たとえばまだ1回転しか習得していない段階で「アクセルで1回転半やってごらん」と言うと、羽生はそのために必要な軸の使い方を教えなくても、体を1回転半させた。

「まだ軸はぶれているので転倒するのですが、体はしっかり回ってるんです。普通の子はそれぞれの回転に必要な体の軸を覚えさせて、それを何度も繰り返してようやく回転できるのですが、彼はそれをすっとばしていきなり跳んでしまう。イメージを構築できるヒントさえ与えたら、完璧ではないけど、外枠はもうできてるという感覚でした」

これだけの逸材とめぐりあったとき、どう接すればいいのか。指導者経験の浅い山田にとっては全てが手探りだったが、目の前の少年がスケートに対して不真面目な態度をとった時には厳しく叱り続けた。「練習するの、しないの、どっちなの?」
「じゃあ、する」
「するんなら、だらだらしないで、しっかりとしなさい」
そんなやり取りを毎回のように繰り返したからか。山田の心の底には「私がスケートを嫌いにさせるんじゃないか」という自己嫌悪が常にあった。「もうスケートをやめる」。羽生が母親にそう言っていたことを後になって聞いたこともある。
「誉めれば誉めるほど上手くなるのは分かっていたのですが、それができませんでした。私が彼のスケート人生に何らかの貢献ができているとすれば、上から抑えつけて彼独特の表現力や感受性を潰そうとしなかったこと、それと後任の指導者にうまくバトンを渡せたことです」と、山田は言う。

仙台を離れる山田は、羽生を恩師に託した。

山田が仙台のリンクを離れ、現在も指導の拠点にしている札幌へ移ったのは、羽生が8歳の時である。このとき、後任として白羽の矢をたてたのが、大学時代に自ら指導を受けた都築章一郎だった。
「当時は松戸にいらっしゃいましたが、私から仙台に来ていただくようにお願いしたんです。

都築は世界選手権銅メダリストの佐野稔らを育てた名将である。その指導の厳しさを肌で知るからこそ、山田は羽生への思いをこんな言葉にして伝えた。
「まだ8歳ですが、すごい選手になるかもしれません。厳しく、でも、絶対につぶさないようにお願いします」

札幌に移ってからの山田は、東北や北海道で大会が開催されるたびに羽生の成長にふれた。山田が仙台にいた頃は同世代のライバルに勝てない試合が多かったが、小学四年生の時に全日本ノービスで初優勝を飾ると、翌年の全日本ジュニアも制し、その名が一躍スケート界に広まっていく。
「結弦が飛躍したきっかけは、間違いなく都築先生の指導です。都築先生は世界で戦うためにやらなければいけないことを、あらゆる面から細かく、徹底的に叩き込みますから」
指導者としての経験を積むにつれ、山田は選手の才能と適切なキャリアについて深く考えるようになった。たまに稀有な才能を感じる子がいても、その輝きが続かないのは本人の資質や努力だけではなく、周囲の環境や指導者の巡りあわせによることが決して少なくないからだ。
「もし、私のもとにずっといたら、どれだけ才能があっても、結弦は世界を目指す選手にはならなかった。その後の指導者も含め、良い環境でスケートを続けられたのは、家族の支えも大きかったでしょうし、逆にそうした周囲を引き込んでいく力も含め、やはり彼はスケートをするために生まれてきた子なんだと改めて思います」

山田が不思議に思うのは、羽生の存在がどれだけ大きくなっても、2人の距離感が変わらないことだ。
羽生がブライアン・オーサーに師事し、カナダに渡った2012年夏、山田は教えている子供たちを連れてブライアンのホームリンクを訪れる機会があった。そこで久しぶりに羽生の練習を見た山田は、一つの確信を抱く。
「集中力やたたずまい、全身から発しているオーラのようなものが凄かったんです。ああ、これはオリンピックチャンピオンになるな、と。それはバンクーバー五輪の前に同じくブライアンの指導を受けていたキム・ヨナ選手の練習を見たときと同じ感覚でした」

山田の姿を見つけた羽生は「ちゃんと練習しないと、山田先生に怒られるって思いました」とはにかんだ。山田は「キム・ヨナ選手を見たときと同じ感動だったよ」と言おうとしたが、素直にその気持ちを伝えられない。なぜか口をついて出たのは、十数年前と変わらない厳しい言葉だった。
「ちゃんとコーチのいう事を聞いて、調子にのらないで練習するんだよ」

ソチ五輪で日本男子フィギュア界初の金メダルを獲得した後も、祝福の言葉さえ直接本にはかけていない。
「本当は『フィギュアスケートを選んでくれてありがとう』って伝えたい。それが私の素直な気持ちなんですから・・・」

怪我や病気に苦しみながら出場した今季の全日本選手権のときも、ヒーローを追うカメラに気を使いながらかけたのはこんな言葉だった。
「早くカナダに帰って練習しなさい。カナダにだって探せば病院があるでしょ」
初めてフィギュアスケートを教えてくれた恩師の厳しい言葉に、羽生は「先生、ほんとに痛いんですよ」と真剣な表情で答えたという。





ブライアンは「ユヅルが私のところに来たとき、ジャンプに変な癖が全くなかった。彼を指導したこれまでのコーチ達に感謝している」と言っていました。最初の段階で山田コーチや都築先生など、正しい技術を教えるコーチに巡り会えたことは、結弦くんにとって、とても幸運なことだったと思います。最初に変な癖をつけてしまった選手がシニアにあがった後に矯正に取り組んでいることはよくありますが、完全に直すことはほぼ不可能なのです。

その後も阿部コーチやブライアンと、結弦くんは、震災やリンク難民、所属団体からの冷遇と、恵まれないことも多々あったけど、コーチだけはハズレがまったくなかった。素晴らしい出会いばかりだった。でも、それが一番大事なこと。やはり、彼はスケートの神様に愛されているのでしょうね。


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2020/01/22 15:00 | クリケット・恩師COMMENT(2)TRACKBACK(0)  TOP

ゆづと山田真実コーチとの絆 その2 ~スポーチ紙記事より

四大陸まで10日以上あるので、書ききれなかった話題を少しずつ蔵出ししていけたらと思います。

5ヶ月も放置してましたが、昨年の24時間テレビの山田真実コーチ記事の続きです。

下書きはほぼできていたのですが、次から次へと情報が入ってくるので、後まわしになっていました。今更ですが、興味のある方はお付き合いください。

「その1」はこちら。
→ ゆづと山田真実コーチとの絆 その1 ~every動画と「羽生結弦-SPIN THE DREAM」より

「その2」はスポーツ新聞の過去記事です。



【羽生結弦伝説】〈上〉小学2年生まで担当の山田真実コーチ「走って転んでまた走って」

 フィギュアスケート男子で66年ぶりの五輪連覇を成し遂げた羽生結弦。スポーツ報知では2回にわたる緊急連載で、スケートとの出会いなどに迫ります。第1回は4歳から小学2年生まで仙台市でコーチを務めた山田真実さん(44)。

 山田さんの中に、羽生との出会いは衝撃として残っている。4歳の少年はヘルメットをかぶり、肘あてと膝あてを着用したまま、氷に向かって跳んでいった。「うわあ、って走っていって転んで。何も言わずに立ち上がって、また走って」。氷を恐れることなく、ダッシュと転倒を繰り返していたという。

 「その時点で違うと思った。普通はリンクを走ることはしない」。多くの子供は最初は立てない、歩けない、滑れない。だが羽生は走った。「バランス感覚が優れているから走れるし、転んで立つこともできる。小さい子にはまず転んだ時にどうやって立つかを教えるけど、それも全部すっ飛ばして自分で勝手に立ちました(笑い)」

 山田さんは、運動選手にとって大切なことに「怖がらないこと」を挙げる。「怖がっちゃうと、練習しても技術に制限ができてしまう。それがなかった」。半回転ジャンプで数か月、1回転ができるようになるまで、早い子でも半年かかるが「教えたらもうできていた。跳び方はぐちゃぐちゃだけど、回転はちゃんと足りていた。この子、すごいって驚きました」

 0回転、半回転、1回転とジャンプ指導は進んでいく。遊びでシングルアクセル(1回転半)を跳ばせたせたところ、初めてで回った。2回転ができるようになった後「ダブルアクセル(2回転半)やってみたら?」と勧めると、一発で回った。「回転の感覚がすごかった」。軸が乱れようが、とにかく回った。

 初めて宮城県大会に出場したのは5歳の時。演目は「草競馬」だった。滑り始めるとロックミュージシャンのように頭を振り続けた。大人顔負けの表情をつくり、自分の世界に入っていった。「彼独特の世界をつくるのが昔から上手でした」。この日の演技をテレビ観戦した山田さんは「何事もなく滑り切れて良かった。ソチより平昌の方が重みのある金メダルだったと思います」と感動していた。(高木 恵)





羽生 たまたま始めたフィギュア、幼稚園時代から見せた片鱗(2014/02/16)

ソチ五輪フィギュアスケート男子

 SPで史上最高点を叩き出し、初出場の大舞台で鮮やかに勝ち切った羽生。短期間で驚くべき進化を果たし、頂点まで駆け上がった氷上のプリンスの成長のドラマを3回の連載で紹介する。

 羽生がスケートを始めたのは4歳の時だった。98年に長野五輪が行われ、冬季競技の注目度が高まり、フィギュアスケートもブームになっている頃だった。77年世界選手権銅メダリストの佐野稔氏が開いていた仙台市のスケート教室で、4歳年上の姉がレッスンを受けていた。「弓の弦(つる)を結ぶように凜(りん)とした生き方をしてほしい」という両親の願いを込めて名付けられた結弦は、姉を見てなんとなくスケート靴を履いた。「たまたま始めた感じですね」と羽生は振り返る。

 天賦の才は、早くからその片鱗(へんりん)を見せていた。幼稚園児にして小学生が跳ぶ1回転半ジャンプを習得。スケートを始めて2年足らずで、2回転サルコーまでこなす驚異的な成長を見せた。何度転んでも怖がらない、無鉄砲な性格が幸いした。

 最初に指導した山田真実コーチ(40)は、「自分の世界に入り込み、音楽を表現する不思議なスター性があった。でも全然言うことを聞かなかった」と苦笑いを交えて振り返る。レッスン中は言うことを聞かずに友達と騒いでばかりだったという。サボっては、両親から「やりたくないのならスケートをやめなさい」と怒られたこともある。

 小学2年の時に行われた、02年ソルトレークシティー五輪。ロシアのヤグディンとプルシェンコの激突を見て、夢舞台への憧れを抱いたが、五輪を意識して年齢を重ねるうちに、スランプに陥った。周りが次々と自分のものにしていく、3回転ジャンプが跳べない。「同期の中で僕が一番、3回転をきれいに跳ぶのが遅かった」。ノービス(10~14歳)の大会では、全く跳べずに号泣したこともある。

 ジャンプの天才は一転、劣等生に転落した。「みんな跳べてる。なんで僕だけ跳べないんだ!」。悔しくても、どうにもならなかった。「体の成長が遅くて、切れもなかった」。ジャンプの精度が増してきたのは、体が出来上がってきた小学5年の頃。小学校卒業までに3回転は全てマスター。小学校の卒業文集に書く将来の夢はもう、決まっていた。「五輪で金メダルを獲る」と。(特別取材班)



山田コーチとゆづ-1


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2020/01/22 09:20 | クリケット・恩師COMMENT(2)TRACKBACK(0)  TOP

「トロントの友情が恋しい」 ~ハビインタより

ハビがショーのインタでクリケットのこと語っています。



翻訳ありがとうございます。


将来的には故郷でのスクール設立やリンク経営をしたい夢はあるそうですが、将来的なことで、まだ4~5年はかかるだろうということ。


ハビのこの番組、結弦くんがお世話になった八戸のリンクなのね。
展示されてる結弦くんのシューズやサインもきっと見たよね。



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この号のキスクラに、ハビのインタが載っています。
昨年のジャパンオープンに出場するために来日したときのもの。
クリケットに関連した部分だけ抜粋します。

―今後の予定を教えてください。
ハビ「少なくとも4~5年はプロスケーターとしてショーに出ていたいですね。あとは、ショーのプロデュースにも関わっていきたいですし、『フラメンコ・オン・アイス』のワールドツアーもしたいです。そしてもっと先の未来では、自分のクラブを持つことが目標です。新しいアイスリンクを地元に作りたくて」

―いつか古巣のクリケットクラブで指導する可能性はありますか?
ハビ「実は、すでにオファーを受けました。もちろん僕は出身であるクリケットクラブを愛していますから、引き受けたい気持ちはありました。でもその一方で、故郷であるスペインに残って子どもたちを指導したいという気持ちもあるので、実現できていないというのが現状です」



キスクラのまわし者ではないですが(笑)、この号はなかなか良かったですよ。ブライアンのインタも載ってたし、写真もよかった。


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ブライアン・オーサー著書の「チーム・ブライアン」の第1弾。
ブライアンと結弦くんの師弟対談が載っています。
将来のことについて話をしている部分を少し抜粋します。

―羽生選手は、4年後のオリンピック(平昌五輪)を終えた後のことも考えていますか?

羽生「4年後に引退したら、僕はまずアイスショーに出ると思いますが、もちろんコーチにも興味があります」

オーサー「それはいい。このトロントに来て、ここで私の後を継いでくれたらいいな。ユヅルとハビエルがこのクリケット・クラブを受け継いでくれれば完璧ですよ」

羽生「もしコーチになるとしたら、まずはこのトロントでのサマーキャンプのような短期的なものかな、と思います。きっとアイスショーにも出るので、ひとりの選手を毎日のように見てあげられないと思いますから。でも、せっかくオリンピック・チャンピオンになったし、こうして素晴らしいコーチにも出会えたので、ここで学んだこととか、手に入れた考え方を、これからのフィギュアスケートを担っていく選手たちに少しでも伝えたいな、と」



オーサーは自分も引退後17年間アイスショーに出ていて、コーチとしてはまだ8年(当時)なので、ユヅルもどんな仕事に就くかで焦る必要はないと言っています。そして、結弦くんは、もし将来コーチになるのだったら、ブライアンのようなコーチになりたいと。

これはソチ五輪で金メダルをとった直後(2014年8月)の対談なので、今はこの頃とは、結弦くんを取り巻く環境もかなり変わりました。結弦くんは、この頃は平昌五輪が終わったら引退するつもりでいましたが、現役続行。もしかしたら北京も出るかも…という勢いです。未来はことは誰も予測はできません。

ただ、ハビにクリケットからコーチのオファーがあったということは、この頃のブライアンの気持ちは変わっていないということ。結弦くんが引退したら、クリケットでコーチをしてほしいという気持ちは、ブライアンの中で今もあるのではないでしょうか。

ブライアンは北京五輪後はコーチを退く可能性も示唆していますし、ジスランは「結弦が引退したらコーチやめる」と言ってるという話もありますし、トレイシーもどうなるか。うたしんがぐんぐん伸びていったら残ってくれるかしら。

遠い先のことは誰にもわからないけど、結弦くんは選択肢が限りなくある人。
一方で、結弦くんがハビと一緒にクリケットで教えている姿も見てみたいですね。サマーキャンプでもいいから。


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2020/01/19 20:05 | クリケット・恩師COMMENT(9)TRACKBACK(0)  TOP

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