羽生結弦選手についての萌え語り Part.29 ~羽生結弦と”葉隠”の精神~

まずは、ロシア語実況から。ニコニコ動画より。翻訳付です。

      


ロシアの解説者が、結弦くんのことを「侍スピリット」と言っています。ロシア人の”侍”のイメージがどういうものかはわかりませんが、実は、私も、あの流血の身で、あえて棄権せず、鬼気迫る表情でフリーに挑んだ彼を見たとき・・・頭の片すみに「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉が掠めたのでした。

武士道とは死ぬことと見つけたり・・・有名な「葉隠」の言葉ですが、これは死を美化した言葉ではないそうです。
いざとなれば、死をも恐れない・・・それだけの覚悟を持って事に臨め・・・ということです。

天寿を全うして死ぬのがもちろん一番いいこと。でも、いざというとき、死を恐れて、武士としての誇りを捨て、不正義の中に生きることを武士は選ばない。いつでも死ねる勇気を持ってこそ、武士の正義は保証される。
もし二つの道があり、どちらも同じ成功の可能性があるとすれば、武士はより死ぬ可能性の高い方を選ぶ。
死ぬ可能性の低い方を選んでうまくいったとしても、それは腰抜けだからである。

葉隠の言わんとすることは、簡単に言うと”死にものぐるいで”正義をまっとうすべし・・・ということ。
自分の信じる正義をまっとうするためには、何事も臆することなく、命をかけて挑む”覚悟”が必要だと。
さらに、現代風に噛み砕けば、「死ぬ気になって一生懸命にやれ」ということ・・・らしいです。

結弦くんは、「一生懸命」という言葉をよく使います。五輪チャンピオンの称号を手に入れた今、そんなに「一生懸命」にならなくても、そんなに難度を上げなくても、常勝できるはずです。でも・・・それは彼の五輪王者としての、スケーターとしての”正義”と”誇り”に反するのでしょう。「安易な成功の道を選ばず、苦しくてもさらなる高みの成功を目指す」という、彼の生き方は、葉隠の精神とかなり通ずるものがあるのでは・・・と感じました。

結弦くんは、かつて言っていた「命を削ってやる」という言葉が大げさでも比喩でもないことを、中国杯のフリーで、はからずも証明して見せました。テレビニュースでのソースですが、止めるオーサーに、「死んでもやる」といったとか。でも、そういうことを聞いても、「ああ、そういう子だよなあ・・・」と、納得する自分がいました。

結弦くんの生き方と、葉隠の武士道の精神が、妙にシンクロして、この子、もしかしたら時代を間違えて生まれてきたんじゃないかしら(笑)・・・と思ったり。でも、現代で良かった。世が世なら、無茶したら本当に死んじゃうから(笑) でも・・・本当に死ぬことはなくても、”スケーター生命”を危険にさらすことは今までもありました。それでも、それを恐れて「それなりに加減する」ようになったら、それはもう「羽生結弦」ではないのだと。「羽生結弦」のファンであることの覚悟を、突きつけられたような・・・中国杯は、そういう一戦だったと、今振り返ると感じます。

スケートの神様は、「羽生結弦」に、フィギュアスケーターとして必要な資質をすべて与えました。
でも、それだけでは他のスケーターに不公平だと思ったのか(笑)、数々の試練のオプション付きで。
それでも・・・それらの試練を乗り越えるたびに、彼は一回り大きくなり、輝きは一層増していった。
神様はそれをご存じなのでしょう。気まぐれな神様の、意地悪な”プレゼント”なのかもしれません。
今回の試練をもスケートの肥やしにして、さらに美しく成長した「羽生結弦」を、私は楽しみにしています。


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テーマ : フィギュアスケート - ジャンル : スポーツ

2014/11/18 16:25 | 2014-2015 seasonCOMMENT(2)TRACKBACK(0)  TOP

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