ゆづと山田真実コーチとの絆 その3 ~Number記事より

山田コーチと結弦くんの絆、「その3」はNumberの記事から。
おお、人気投票で1位に輝いた表紙ですね(笑)


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この号のNumberに「ユヅルが初めてリンクに立った日」という記事があります。
ライターは城島充さん。抜粋します。

後のオリンピック金メダリストが初めてリンクに立ち、氷の上を滑った光景を山田真実は鮮明に記憶している。正確に言うと、滑ったのではなく、ヘルメットを被った4歳の羽生結弦は子供用の小さな貸スケート靴を履いて氷の上を走った。

「ほとんどの子は怖がってしゃがみこんだり、フェンスをつかむのですが、結弦は違いました。いきなり走ったんです。それも、ぶっ飛んで行くって感じで」

北海道苫小牧市出身の山田は東京の大学を卒業後、仙台市内のリンクで指導者としてのキャリアを築き始めたばかりだった。
羽生の4歳上の姉を週に一度個人レッスンをしていたが、いつもリンクに遊びに来ていた弟はその日、母に勧められて初めてスケート靴を履いたのだった。

氷の上を走れたのは、ほんの数歩だったか。小さな体はあっという間にバランスを崩すと、突っ伏すように転んだ。
「痛くない?大丈夫?」
山田は慌てて駆け寄ったが、リンクの外で遊んでいる時にも運動神経の良さを感じさせた男の子はけろっとした表情ですぐに立ち上がると、また走り始めた。
そして同じように転倒して冷たい氷に全身を打ちつけるのだが、すぐに起き上ってまた走り出す。山田は声をかけるのをやめ、ただ驚いてその光景を見つめた。

「氷の上で転ぶ痛みを味わうと、次はどうしても怖がって力を加減してしまう。子供の技術を向上させる上で、もっとも大きな障害になるのはこの恐怖心なんです。でも、結弦にはそれがなかった」

その後の練習も指導の主体はあくまで姉であり、少年の集中力は10分も続かなかった。だが、その短い時間に垣間見せたいくつかの才能の萌芽は、フィギュアという競技に必要な要素とぴたりと重なっていく。

5歳になるころ、初の大会に出場するために『草競馬』という曲に合わせて振り付けをしたときだ。スケーティングの技術はまだ未熟だったが、小さな体で何かを表現したかったのだろう。おかっぱ頭の少年は曲が始まると、不安定な足さばきでリンクの上を滑り、頭を思いっきり振った。
「まるでX JAPANのYOSHIKIさんがドラムで叩いている時のように頭を振り続けるんです。まだ、手足を自由に使って表現する技術がないから、頭を振るしか表現方法がなかったんですね。最初からすっと自分の世界にはいってしまうので驚きました。『そんなに振っていると、頭が痛くなるわよ』って言ったのを覚えています」

自らが演出した世界に酔う才覚は、フィギュア選手にとって必要不可欠な要素である。「もっと思い切って体を動かしなさい」と言っても、恥ずかしがって小さくなる子どもが多いなか、羽生の感情表現はときに過剰に映るほどだった。
「自己陶酔できるというのでしょうか。けがをしたときには悲劇の主人公になりきるし、私に怒られた時も『あなたに怒られて、僕は今、ものすごくダメージを受けています』という態度をアピールしてくるんです。彼の表現が真実なのか演技なのか、見極めるのが大変でした。

山田を驚かせたもう一つの才能は、新しいジャンプを習得する際の適応力である。
フィギュアには6種類のジャンプがある。全ての跳び方で1回転できるようになってから次の段階へ進むのだが、たとえばまだ1回転しか習得していない段階で「アクセルで1回転半やってごらん」と言うと、羽生はそのために必要な軸の使い方を教えなくても、体を1回転半させた。

「まだ軸はぶれているので転倒するのですが、体はしっかり回ってるんです。普通の子はそれぞれの回転に必要な体の軸を覚えさせて、それを何度も繰り返してようやく回転できるのですが、彼はそれをすっとばしていきなり跳んでしまう。イメージを構築できるヒントさえ与えたら、完璧ではないけど、外枠はもうできてるという感覚でした」

これだけの逸材とめぐりあったとき、どう接すればいいのか。指導者経験の浅い山田にとっては全てが手探りだったが、目の前の少年がスケートに対して不真面目な態度をとった時には厳しく叱り続けた。「練習するの、しないの、どっちなの?」
「じゃあ、する」
「するんなら、だらだらしないで、しっかりとしなさい」
そんなやり取りを毎回のように繰り返したからか。山田の心の底には「私がスケートを嫌いにさせるんじゃないか」という自己嫌悪が常にあった。「もうスケートをやめる」。羽生が母親にそう言っていたことを後になって聞いたこともある。
「誉めれば誉めるほど上手くなるのは分かっていたのですが、それができませんでした。私が彼のスケート人生に何らかの貢献ができているとすれば、上から抑えつけて彼独特の表現力や感受性を潰そうとしなかったこと、それと後任の指導者にうまくバトンを渡せたことです」と、山田は言う。

仙台を離れる山田は、羽生を恩師に託した。

山田が仙台のリンクを離れ、現在も指導の拠点にしている札幌へ移ったのは、羽生が8歳の時である。このとき、後任として白羽の矢をたてたのが、大学時代に自ら指導を受けた都築章一郎だった。
「当時は松戸にいらっしゃいましたが、私から仙台に来ていただくようにお願いしたんです。

都築は世界選手権銅メダリストの佐野稔らを育てた名将である。その指導の厳しさを肌で知るからこそ、山田は羽生への思いをこんな言葉にして伝えた。
「まだ8歳ですが、すごい選手になるかもしれません。厳しく、でも、絶対につぶさないようにお願いします」

札幌に移ってからの山田は、東北や北海道で大会が開催されるたびに羽生の成長にふれた。山田が仙台にいた頃は同世代のライバルに勝てない試合が多かったが、小学四年生の時に全日本ノービスで初優勝を飾ると、翌年の全日本ジュニアも制し、その名が一躍スケート界に広まっていく。
「結弦が飛躍したきっかけは、間違いなく都築先生の指導です。都築先生は世界で戦うためにやらなければいけないことを、あらゆる面から細かく、徹底的に叩き込みますから」
指導者としての経験を積むにつれ、山田は選手の才能と適切なキャリアについて深く考えるようになった。たまに稀有な才能を感じる子がいても、その輝きが続かないのは本人の資質や努力だけではなく、周囲の環境や指導者の巡りあわせによることが決して少なくないからだ。
「もし、私のもとにずっといたら、どれだけ才能があっても、結弦は世界を目指す選手にはならなかった。その後の指導者も含め、良い環境でスケートを続けられたのは、家族の支えも大きかったでしょうし、逆にそうした周囲を引き込んでいく力も含め、やはり彼はスケートをするために生まれてきた子なんだと改めて思います」

山田が不思議に思うのは、羽生の存在がどれだけ大きくなっても、2人の距離感が変わらないことだ。
羽生がブライアン・オーサーに師事し、カナダに渡った2012年夏、山田は教えている子供たちを連れてブライアンのホームリンクを訪れる機会があった。そこで久しぶりに羽生の練習を見た山田は、一つの確信を抱く。
「集中力やたたずまい、全身から発しているオーラのようなものが凄かったんです。ああ、これはオリンピックチャンピオンになるな、と。それはバンクーバー五輪の前に同じくブライアンの指導を受けていたキム・ヨナ選手の練習を見たときと同じ感覚でした」

山田の姿を見つけた羽生は「ちゃんと練習しないと、山田先生に怒られるって思いました」とはにかんだ。山田は「キム・ヨナ選手を見たときと同じ感動だったよ」と言おうとしたが、素直にその気持ちを伝えられない。なぜか口をついて出たのは、十数年前と変わらない厳しい言葉だった。
「ちゃんとコーチのいう事を聞いて、調子にのらないで練習するんだよ」

ソチ五輪で日本男子フィギュア界初の金メダルを獲得した後も、祝福の言葉さえ直接本にはかけていない。
「本当は『フィギュアスケートを選んでくれてありがとう』って伝えたい。それが私の素直な気持ちなんですから・・・」

怪我や病気に苦しみながら出場した今季の全日本選手権のときも、ヒーローを追うカメラに気を使いながらかけたのはこんな言葉だった。
「早くカナダに帰って練習しなさい。カナダにだって探せば病院があるでしょ」
初めてフィギュアスケートを教えてくれた恩師の厳しい言葉に、羽生は「先生、ほんとに痛いんですよ」と真剣な表情で答えたという。





ブライアンは「ユヅルが私のところに来たとき、ジャンプに変な癖が全くなかった。彼を指導したこれまでのコーチ達に感謝している」と言っていました。最初の段階で山田コーチや都築先生など、正しい技術を教えるコーチに巡り会えたことは、結弦くんにとって、とても幸運なことだったと思います。最初に変な癖をつけてしまった選手がシニアにあがった後に矯正に取り組んでいることはよくありますが、完全に直すことはほぼ不可能なのです。

その後も阿部コーチやブライアンと、結弦くんは、震災やリンク難民、所属団体からの冷遇と、恵まれないことも多々あったけど、コーチだけはハズレがまったくなかった。素晴らしい出会いばかりだった。でも、それが一番大事なこと。やはり、彼はスケートの神様に愛されているのでしょうね。


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2020/01/22 15:00 | クリケット・恩師COMMENT(2)TRACKBACK(0)  TOP

ゆづと山田真実コーチとの絆 その2 ~スポーチ紙記事より

四大陸まで10日以上あるので、書ききれなかった話題を少しずつ蔵出ししていけたらと思います。

5ヶ月も放置してましたが、昨年の24時間テレビの山田真実コーチ記事の続きです。

下書きはほぼできていたのですが、次から次へと情報が入ってくるので、後まわしになっていました。今更ですが、興味のある方はお付き合いください。

「その1」はこちら。
→ ゆづと山田真実コーチとの絆 その1 ~every動画と「羽生結弦-SPIN THE DREAM」より

「その2」はスポーツ新聞の過去記事です。



【羽生結弦伝説】〈上〉小学2年生まで担当の山田真実コーチ「走って転んでまた走って」

 フィギュアスケート男子で66年ぶりの五輪連覇を成し遂げた羽生結弦。スポーツ報知では2回にわたる緊急連載で、スケートとの出会いなどに迫ります。第1回は4歳から小学2年生まで仙台市でコーチを務めた山田真実さん(44)。

 山田さんの中に、羽生との出会いは衝撃として残っている。4歳の少年はヘルメットをかぶり、肘あてと膝あてを着用したまま、氷に向かって跳んでいった。「うわあ、って走っていって転んで。何も言わずに立ち上がって、また走って」。氷を恐れることなく、ダッシュと転倒を繰り返していたという。

 「その時点で違うと思った。普通はリンクを走ることはしない」。多くの子供は最初は立てない、歩けない、滑れない。だが羽生は走った。「バランス感覚が優れているから走れるし、転んで立つこともできる。小さい子にはまず転んだ時にどうやって立つかを教えるけど、それも全部すっ飛ばして自分で勝手に立ちました(笑い)」

 山田さんは、運動選手にとって大切なことに「怖がらないこと」を挙げる。「怖がっちゃうと、練習しても技術に制限ができてしまう。それがなかった」。半回転ジャンプで数か月、1回転ができるようになるまで、早い子でも半年かかるが「教えたらもうできていた。跳び方はぐちゃぐちゃだけど、回転はちゃんと足りていた。この子、すごいって驚きました」

 0回転、半回転、1回転とジャンプ指導は進んでいく。遊びでシングルアクセル(1回転半)を跳ばせたせたところ、初めてで回った。2回転ができるようになった後「ダブルアクセル(2回転半)やってみたら?」と勧めると、一発で回った。「回転の感覚がすごかった」。軸が乱れようが、とにかく回った。

 初めて宮城県大会に出場したのは5歳の時。演目は「草競馬」だった。滑り始めるとロックミュージシャンのように頭を振り続けた。大人顔負けの表情をつくり、自分の世界に入っていった。「彼独特の世界をつくるのが昔から上手でした」。この日の演技をテレビ観戦した山田さんは「何事もなく滑り切れて良かった。ソチより平昌の方が重みのある金メダルだったと思います」と感動していた。(高木 恵)





羽生 たまたま始めたフィギュア、幼稚園時代から見せた片鱗(2014/02/16)

ソチ五輪フィギュアスケート男子

 SPで史上最高点を叩き出し、初出場の大舞台で鮮やかに勝ち切った羽生。短期間で驚くべき進化を果たし、頂点まで駆け上がった氷上のプリンスの成長のドラマを3回の連載で紹介する。

 羽生がスケートを始めたのは4歳の時だった。98年に長野五輪が行われ、冬季競技の注目度が高まり、フィギュアスケートもブームになっている頃だった。77年世界選手権銅メダリストの佐野稔氏が開いていた仙台市のスケート教室で、4歳年上の姉がレッスンを受けていた。「弓の弦(つる)を結ぶように凜(りん)とした生き方をしてほしい」という両親の願いを込めて名付けられた結弦は、姉を見てなんとなくスケート靴を履いた。「たまたま始めた感じですね」と羽生は振り返る。

 天賦の才は、早くからその片鱗(へんりん)を見せていた。幼稚園児にして小学生が跳ぶ1回転半ジャンプを習得。スケートを始めて2年足らずで、2回転サルコーまでこなす驚異的な成長を見せた。何度転んでも怖がらない、無鉄砲な性格が幸いした。

 最初に指導した山田真実コーチ(40)は、「自分の世界に入り込み、音楽を表現する不思議なスター性があった。でも全然言うことを聞かなかった」と苦笑いを交えて振り返る。レッスン中は言うことを聞かずに友達と騒いでばかりだったという。サボっては、両親から「やりたくないのならスケートをやめなさい」と怒られたこともある。

 小学2年の時に行われた、02年ソルトレークシティー五輪。ロシアのヤグディンとプルシェンコの激突を見て、夢舞台への憧れを抱いたが、五輪を意識して年齢を重ねるうちに、スランプに陥った。周りが次々と自分のものにしていく、3回転ジャンプが跳べない。「同期の中で僕が一番、3回転をきれいに跳ぶのが遅かった」。ノービス(10~14歳)の大会では、全く跳べずに号泣したこともある。

 ジャンプの天才は一転、劣等生に転落した。「みんな跳べてる。なんで僕だけ跳べないんだ!」。悔しくても、どうにもならなかった。「体の成長が遅くて、切れもなかった」。ジャンプの精度が増してきたのは、体が出来上がってきた小学5年の頃。小学校卒業までに3回転は全てマスター。小学校の卒業文集に書く将来の夢はもう、決まっていた。「五輪で金メダルを獲る」と。(特別取材班)



山田コーチとゆづ-1


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2020/01/22 09:20 | クリケット・恩師COMMENT(2)TRACKBACK(0)  TOP

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