ゆづと山田真実コーチとの絆 その4 ~朝日新聞記事より

山田真実コーチのお話、その4です。朝日新聞の記事から。

こちらは、平昌五輪のショートが終わった時点での記事です。



少年・羽生結弦、難しい技ほど食いついた…元コーチ語る(20180217)

 16日に行われたフィギュアスケート男子ショートプログラム(SP)で、羽生結弦(23)=ANA=がトップに立った。昨年11月に痛めた右足首の影響を感じさせない圧巻の演技に、かつての指導者たちは驚きと喜びの声をあげた。17日のフリーで、2大会連続となる金メダルに挑む。

 「緊張してるんだな」。小学2年生まで仙台市でコーチを務めた山田真実さん(44)は、リンクに滑り出す羽生をテレビで見て感じた。「彼らしい自由な感じがない。一個でも失敗しちゃいけないみたいな感じ」

 それでも、次々とジャンプを決める。着氷の後、両方の拳を握りしめた。「思うようにいっているんだ」。山田さんの心配は、安心に変わった。

 指導を始めたころ、羽生はリンク外をドタバタと走り、練習を始めても10分ほどで飽きてどこかに行ってしまった。「やんちゃで、最初の1年くらいはレッスンにならなかった」

 ただ、ジャンプの吸収力は高かった。他の子が1年かかる1回転半ジャンプを1日で跳んだ。難しいことをやるときほど食いつきがいい。2回転ジャンプが未完成のとき、あえて2回転半に挑戦させた。

 そのころから頭や手足を思い切って振り、全身で何かを表現しようとしていた。観客を喜ばせる方法を知っているようだった。「どこからその自信が出てくるのかと思うほど『自分はできる』と思い込んでいた」という。

 SPを終えた羽生は、表情を緩め、両手をたたいてファンの声援に応えた。

 山田さんの後、仙台で羽生を中学まで指導した都築章一郎さん(80)はそんな様子にホッとした。「いい状態で演技できた。自分のイメージ通りに体をうまくコントロールしていた」

 羽生は当時からリンク外でよくイメージトレーニングをしていたという。「けがで氷に上がれないときにも取り組んでいたのだろう。だから、ブランクを乗り越えられた」とみる。

 17日のフリーで、2014年のソチ大会に続く連覇を狙う。「重圧のなか(ショートプログラムを)やりきった。人間的な大きさ、心の成長が最も大きい。ブランクによるスタミナ不足は集中力で補ってほしい」(後藤太輔、西村奈緒美、高浜行人)



こちらは有料記事になります。ベタ貼りします。
山田コーチだけでなく、都築コーチや長久保コーチなどについても書かれています。


「スタッフとじゃれ合っていた」 恩師が語る羽生結弦(20190319)

 平昌(ピョンチャン)五輪フィギュアスケート男子で66年ぶりに連覇を達成した羽生結弦(24)=ANA=が、20日に開幕する世界選手権(さいたま市)で再び頂点をめざす。偉業を達成してもなお、挑戦を続ける原点は何なのか。恩師たちの言葉から、羽生の少年時代を振り返る。

 昨年11月の夕方だった。アイスリンク仙台の入り口から、学校帰りの子どもたちが「こんにちは」と元気よく入ってきた。

 羽生が五輪で金メダルを獲得したときの新聞記事や、直筆のメッセージなどが飾られている。「どんな試合でも全力で滑る!!」(2014年)、「平昌オリンピックで金メダルを取る!」(17年)と書かれた短冊もあった。

 支配人の在家正樹(48)は小さいころの羽生を知る。「人なつっこくて、スタッフとよくじゃれ合っていた。いつも大きな声で『ありがとうございます』と、きちんとあいさつができる子だった」。ジャンプを失敗しても何度も跳び続ける姿が、印象に残っているという。

 その羽生が初めてリンクに立ったのは、4歳のころだった。姉のスケート教室に付き添う母に連れられてきた。リンクサイドで遊んでいると、山田真実(45)が声をかけた。「スケート、やってみない」

 羽生はスケート靴を履いた。床を走り出し、そのままリンクへ。数歩進んだところで、ひっくり返った。「大丈夫?」。山田が声をかけると、何事もなかったかのようにまたリンクで走り始めた。

 それが羽生のスケートデビューだった。


「こんな才能のある子は初めて」

 機敏な動きと高い運動能力。「他の子と違う」。山田は感じた。スケートを教えるようになると、ずば抜けた才能は明らかだった。跳び方を教えればすぐできてしまう。

 同年代の男子と同じように、練習は10分も続かない。滑り出してもすぐに、リンクサイドに出てボール遊びを始めてしまう。

 それでも、山田はこう振り返る。「1回転のアクセル(ジャンプ)をやってごらんと言うと、『僕もアクセルやっていいの』と言ってやる。そして跳べてしまう。こんな才能のある子は初めてだった」

 羽生が小学2年のころ、山田は北海道に引っ越した。後を受け継いだのが都築章一郎(81)だった。高校1年まで教えた。

 「天真らんまん」

 それが羽生に対する最初の印象だった。「ジャンプを競い合って2、3学年上のお兄さんに負けて悔しがって。でも、次は勝とうとして一生懸命練習していた」

 都築は基礎練習を繰り返した。「基礎ができていれば成長する。回転数が多くなっても跳べる」。羽生は根気よく続けた。「飽きっぽい性格には向かないと思ったけれど、結弦は自分に必要だと思うことは徹底してやっていた」

 特にアクセルジャンプに時間をかけた。羽生は足を大の字に開いて1回転半を跳ぶ「ディレイド・アクセル」が得意になった。それが今のトリプルアクセル(3回転半)の精度の高さにつながっているという。

 ジャンプだけではない。羽生は音楽にのって滑るのも好きだった。音楽を自分でイメージし、表現して踊った。「スケートを通じて芸術家になってほしい」。そう願った都築は、振り付けをしてもらうため、小学生の羽生をロシアに連れて行った。


まねて上手になりたい子

 長久保裕(72)も、小学生のころの羽生を教えた一人だ。

 羽生は、06年トリノ五輪女子金メダルの荒川静香(37)や世界選手権2大会連続男子銅メダルの本田武史(37)らと一緒に滑った。先輩の滑りやジャンプを吸収していった。

 「感覚が良くてすぐに理解して体で表す。自分で考えて直すことができた。スケートに対して勉強熱心だった。(五輪金メダリストのエフゲニア・)プルシェンコさんや荒川さんたちとは違う、ではなく、まねて上手になりたいと思う子だった」。練習前のリンクサイドでは、母が付いて、プルシェンコがやっていたビールマンスピンを練習していたという。

 長久保は言う。「男の子はダイヤモンド。僕らは一生懸命磨くんです。そうして続けていくとダイヤモンドのように光り出す」

 そんな羽生を、11年3月11日、東日本大震災が襲った。「あの天真らんまんだった羽生がそのときは落ち込んでいた。自分はスケートをできるのか。目標を持ち続けることが難しいと感じていたようだった」。都築は振り返る。

 練習拠点を失った羽生を、横浜市内のリンクに移っていた都築が一時的に受け入れた。そして週末は60回もアイスショーを回った。「ショーをやる中で周りから励まされて、新たに挑戦する気持ちがわいてきたと思う」

 12年3月、羽生は初出場の世界選手権で3位に入った。その夏、カナダ・トロントに拠点を移した。世界の頂点への挑戦が本格化した。


「世界の羽生になろう」

 都築は思い出す。羽生が小さいころのことだ。

 「世界の羽生になろう」「夢に挑戦しよう」

 よくそんな話をした。

 「今季は『初心に帰る』と言っていた。小さいころに話したことが心の中に残っていて、その重要性を感じてくれているのかもしれない」

 今季、羽生は4回転―3回転半に挑戦した。誰も跳ばなかった技だ。「彼は未知の世界にどんよくに挑戦する気持ちを今も持っている」

 数年前、羽生はアイスショーなどで長久保を見つけると、練習後に隣に寄ってきた。そして尋ねた。「ジャンプの状態はどうでしたか」「先生、明日(自分の練習が)午前7時からですからお願いします」。幼いころから自分を知る指導者に、頂点を極めても謙虚に学ぶ。

 最近は教えることにも興味があるようだ。平昌五輪で金メダルを獲得した直後、長久保がLINEでお祝いの言葉を送ると、こんなメッセージがきたという。

 「わざわざありがとうございます!いつかコーチングのこと、教えてください。先生のとこ行きます」=敬称略(浅野有美)



長久保コーチはジャンプの指導に定評があるコーチでした。今はコーチ業を引退されていますが。

都築は基礎練習を繰り返した。「基礎ができていれば成長する。回転数が多くなっても跳べる」・・・都築先生の指導が間違っていなかったことは、今結弦くんが証明しています。都築先生、ありがとうございました。


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テーマ : フィギュアスケート - ジャンル : スポーツ

2020/01/24 09:30 | クリケット・恩師COMMENT(2)TRACKBACK(0)  TOP

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