羽生結弦とマイケル・ジャクソン、そして世阿弥と巫女舞

宗教学者の山折哲雄さんのコラムについてツィッターでつぶやいてる人がいたので、とりあげてみます。私が過去に書いた記事とも少し関連しているので。

朝日新聞の山折さんのコラム。有料記事なのでべた貼りします。



(生老病死)羽生選手、マイケル、そして能 山折哲雄(20190413 朝日新聞デジタル)

 昨年2月、フィギュアスケートの羽生結弦選手が平昌五輪で男子として66年ぶりの連覇をはたした。直前まで怪我(けが)で練習を中断し、4回転ジャンプを軸にする演技が危ぶまれたが、五輪前の1月4日にニューヨーク・タイムズに次のような記事がのった。

 「かつてない優れたフィギュアスケーター、羽生結弦は、ウィニー・ザ・プーに囲まれた氷上のマイケル・ジャクソンだ」

 評したのは、ジェレ・ロングマン氏。私はこの人物について何もしらない。けれどもマイケルの名が出てきて、私の妄想がかきたてられた。「ウィニー・ザ・プー」は、演技のあと、羽生ファンがリンクに投げ入れるクマのぬいぐるみのこと。

 マイケルは1958年、米国インディアナ州に生まれた黒人ロック歌手。兄たち4人と結成した「ジャクソン5」のリードボーカルとして活躍し、世界的なスーパースターの階段をかけのぼった。天性の歌のうまさとリズム感のあるダンスで観客の目を奪い、人間業とは思えない「ムーンウォーク」に度肝を抜かれたものだ。踊りに熱中するときは、全身ほとんど精巧な自動機械と化し、寸分の狂いも生じない。かつてチャプリンがみせた「殺人狂時代」のようなスリルを再現してくれた。

 私が思いだしたのが、中世ヨーロッパに流行した「ダンス・マカーブル(骸骨の踊り)」だった。死の思想が深まり、「死を想(おも)え」の警鐘が打ち鳴らされたころだ。大げさなと言われそうだが、マイケルのムーンウォークとダンス・マカーブルに共通していたのは、踊り手の肢体をかぎりなく「死体」に近づけること、自動機械的な身体につくり変えることだったように思う。

 マイケルの一挙手一投足を見ているうち、次に眼前に浮かび上がってきたのが、わが中世の能舞台の光景、世阿弥の夢幻能の世界だ。そこに登場するシテの多くは亡者の霊である。亡者の身もだえする姿態を演ずるのに、死=霊の領域に近づいていかなければならない。平昌五輪決勝の最終場面、羽生選手がフリーの演技に滑りだしたとき、笛が鳴り、映画「陰陽師」の和楽器の音楽が流れた。そのとき彼は、マイケルとともに能役者シテの運命を生きていたのかもしれない。 (宗教学者)



山折さんが、同じテーマで、別の媒体で書かれたものです。


山折さんは、これ以外にも平昌五輪直後、2018年5月6日(日)、京都新聞の「天眼」というコラム欄で同じテーマで書いておられます。よほど、羽生結弦とマイケルジャクソン、はては世阿弥との繋がりにこだわりをおもちだったのでしょう。



山折さんが引用している、五輪前の1月4日のニューヨーク・タイムズの記事というのはこれ。


過去記事で、このニューヨークタイムズの記事について書いてるので、興味があればどうぞ。
→ ハビ「ゆづは回復してる」&NYタイムズ「ユヅルは氷上のマイケルジャクソン」


英紙インディペンデントも「氷上のマイケル・ジャクソン」と絶賛。







山折氏の説を別にしても、世阿弥の芸能観は、結弦くんのフィギュア観に通じるものを感じます。

舞は音の力で舞う」…「天と地と」では18バージョン、「SEIMEI」では33バージョンの編曲をしたという矢野さん。矢野さんは「音楽も大事にして、ストーリーを作って、それを実現させる」という、自分の理想を実現させてくれた…とおっしゃっています。実際、結弦くん本人も「自分にとってフィギュアスケートはイコール音楽だ」と言ってましたね。だから、音楽がBGMになるなんてことは、彼の美意識が許さないのです。

舞の美は気品ある舞姿と柔らかな所作」…「天と地と」において、結弦くんはこの境地に達したと感じました。元々バレエダンサーが揃って絶賛する所作の美しさをもつ結弦くんですが、「天と地と」でさらに進化したと思います。

舞姿の美しさ…という点で、注目したい記事があります。
女性自身 2021年2月2日号」に、結弦くんの小さな記事が載っていました。そこに、早稲田の西村教授のこんな言葉が。

新プログラムに、ある”日本の伝統”を取り入れているのではないか、と教えてくれたのは、羽生の大学時代の指導教授である、早稲田大学人間科学部人間情報科学科の西村昭治教授だ。

「羽生さんから”巫女舞に興味があって、詳しく見学させてもらった”という話を聞いたことがあります。大学入学前後のころの話だったと思います」

巫女舞とは、神道で神事の際に奉納される舞だ。

「巫女がぐるぐる回転して舞台をあちこち移動しながら舞う様子にフィギュアスケートと通じるものを感じたのかもしれません。自分のフィギュアスケートにオリジナリティを出すために、それを前の『SEIMEI』や今回の『天と地と』の表現に取り入れたんじゃないかと思うんです」(西村教授)



これは新情報ではないでしょうか。まだ十代のころに巫女舞に興味をもち、詳しく見学させてもらったというのは。つまり、ソチ五輪前から、「SEIMEI」や「天と地と」が生まれる伏線はあった。そして、能楽師の野村萬斎さんにあれだけ心酔していた理由もそれならわかる。彼は、かなり前から、「フィギュアに『和』」を取り入れる」ことに並々ならぬ関心があったわけです。

とすれば、特にスケオタでもない宗教学者の山折さんが、平昌五輪の演技をみて、そしてNYタイムズの記事を読んで、そこから「世阿弥」に繋げたのは慧眼だったといえるのではないでしょうか。

それにしても、羽生結弦という人は、フィギュアスケートのためならば、どこまで貪欲になれる人なのだろう。表現者としてどこまで極めようとしているのか。

羽生結弦がなぜ世界中の人々を熱狂させるのか。その答えがここにある。

「フィギュアスケートだけが人生のすべてじゃないさ」と逃げ道を作り、演技の質と釣り合わない採点に甘えて向上心を忘れたスケーターが、勝利だけをいくら積み重ねさせても、それで人の心を動かせるはずはないのです。


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2021/01/26 09:20 | コラム・雑誌記事COMMENT(2)TRACKBACK(0)  TOP

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