ハーシュ氏が語る「ISUと審査員」 & 羽生推しだった頃のハーシュ氏発言

2年ほど前の記事です。
昨今、露骨なネイサン推しで評判が悪いハーシュ氏ですが、この頃はマトモでした。



委員会で提案された、「利害のからむ各国のスケ連上層部による国際競技会の審査員制度を取りやめるべき」というごく常識的な議題はなぜか議論もされずに却下された。 不正採点をしたジャッジを1年やそこらでまた競技審査に戻すようなことを繰り返していれば、外から見てこのスポーツ(フィギュアスケート)がどれほど印象が悪く見えるか、ISUには理解できないようだ。 不正を犯した審査員は一生、競技会審査からははずすべきである。 審査の不正は、このスポーツをモラル的に「殺人する」に等しいと言ってもよいからだ。

―(中略)―

彼は、「ISUはもうとっくの昔に、少なくともシニアの競技会に関しては、それぞれの国のスケ連の利害からは切り離されたプロのジャッジの集団を雇うべきだったのだ」という。 「そのためのコストは、おそらく今のジャッジたちに酒を飲ませたり夕食を食べさせたり、旅費・宿泊費をしはらったり、おべっかをつかったり(袖の下を渡したり?)するよりもずーっと安いんじゃないか」と。

ISUは、残念ながら今の状態を続けることで、「信頼」という大きなものを失うというコストを支払い続けるのだということを気がつくべきなのに、と言うのである。

―(中略)―

フィギュアスケートは確かに主観で審査する部分の大きなスポーツかもしれない。 しかし、その中にも客観的に判断できる「絶対的」なテクニカルエレメンツがあるはずだ。 その部分で観客の多くが疑問をいだく採点があれば、これは不正、と感じることがあるだろう。

審査に不正があるようなスポーツを人々がまじめに見ることができるかどうか、ISUはよく考えた方が良い。そのためには、明らかに不正を犯したジャッジをまた審査に戻すようなことは本当はあってはならないのだ。それはモラル的にこのスポーツを殺すことになる、というハーシュ氏の意見は言い過ぎとはいえないだろう。

ハーシュ氏のいう相対的倫理観、という言葉が何を意味しているのか。 フィギュアスケート界の人間が内部の常識だけで共依存しているようなことが当たり前になっては、確かにいけないのである。 モラルや倫理観は、ある程度公的にシェアできるものでなくてはならず、外部の人々やファンに理解できないモラルをISUが持っていることは長い目で見てこのスポーツのためにはならないのである・・・。



ハーシュ氏のいってることは、至極至極マトモです。私達が普段思っていることであり、それを代弁してくれています。

ハーシュ氏のいう相対的倫理観…なんとなくわかります。
ある程度フィギュアを見続けていると、感じる違和感。その原因はきっとこれ。

フィギュア界の常識は、世間の非常識

フィギュア界内部の倫理観は、外部の人間には理解できない類のものです。しかし、内部の人達にとってはそれが当たり前であり、昔から脈々と続けてきた常識なのです。だから、私達がどれだけ「公正なジャッジを」と訴えても、馬耳東風なのです。世間とは次元の違う空間で生きているから、自分達の何が悪いのかすら理解できないのかもしれない。

おそらく、長くフィギュアスケートを見続けるには、「フィギュア界の相対的倫理観」に、自分も染まるしかないのだろうと、最近は思っています。染まらなければ、見るたびにイライラしていなければならない。こんなに精神衛生上悪いスポーツが他にあるだろうか。

内部の常識だけで共依存している…このポプラさんの言葉で、私がずっと感じていた日本のスケ連に感じる不快感の正体がわかりました。「小さな村」の中のドロドロした腐臭のするような「共依存」。共依存は、依存しあっているもの同士はどんなに醜悪なものでも心地よいもの。でも、部外者からみると、大変気持ち悪く、おぞましく感じるものです。それが、中枢部だけでなく、末端にまで広がっているのを感じるにしたがって、結弦くん以外の日本人選手を応援できなくなっています。だから、最近結弦くん以外で見るのはロシア女子ばかり。ロシアは派閥闘争で派手にプロレスばっかりやってるけど、日本みたいに裏で足を引っ張る陰湿さよりはるかにマシ。


ハーシュ氏も、羽生推しだった頃がありました。




結弦くんが怪我をしたことで、平昌五輪の優勝候補の一番手はネイサンだと多くの専門家が予想していました。その中で、結弦くんを金メダルと予想していたのは、マッシさん、プルさん、ハーシュ氏、それにアメリカの雑誌1社だけでした。2つの記事を例としてあげましたが、ハーシュ氏はこれ以外でも、なにかにつけ結弦くんを絶賛していた時代もあったのです。まさか、こんなに露骨にネイサン上げ羽生下げに方向転換するようになるとはね。


ハーシュ氏の羽生下げの一例。「SEIMEI」の再演を「壊れたレコード」と表現した。


羽生結弦の新しい(古い)プログラムは壊れたレコードのように聞こえます。同じ古いを繰り返すのは彼のスケートの才能にふさわしくない。私の見解です。


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2020/10/20 15:25 | 問題提起COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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